第2回イスラエル平和活動報告
                                   
第2回イスラエル平和旅行
2010年1月27日(水)から2月3日(水)まで  
                          <つづき>
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*(1)イスラエル平和旅行             

この度、18名の東京都武蔵野WPPSメンバーと共に、1月27日〜2月3日までイスラエルを訪問しました。そのときの様子を皆様にご報告いたします。イスラエルの歴史と現状について解説も加えますので、少し長くなりますがよろしくお願い申し上げます。


〇出発するまで

2009年9月、来日中のハギトさんとお会いしたところ、「今度はいつイスラエルに来てくれるのか。ぜひイスラエルに来て平和活動を手伝ってほしい」と要請されました。


ハギトさんとの出会いは2003年にさかのぼります。この年の7月、イスラエルで水の結晶写真の江本勝さんと一緒にピースセレモニーを開いたことがあります。その時は財団法人・五井平和財団の西園寺裕夫理事長様からのメッセージを携えて、14名のメンバーで行きましたが、今回も殆どの方が参加の意志を示してくださいました。

考えて見ますと、前回行って以来、今年で足掛け7年目になります。丁度区切りの年ですし、彼女に会った瞬間に大変僭越ですが、イスラエルではかけがえの無い彼女へのメディカルケアーチェックも必要と思い、帰宅後間もなくイスラエル行きを彼女に知らせました。彼女は大変喜ばれ、それ以来約4ヶ月半かけて企画準備が進められました。

〇1月28日(木) アブ・ゴシュ

私達は2010年1月27日(水)の午後、成田空港20時発のウズベキスタン航空機に搭乗、関西空港に寄り、ここで3人の方が加わり、総勢18名がそろいました。


真夜中にタシケント空港で乗り換えて、翌28日の朝9時ころにテルアヴィブのベングリオン空港に到着しました。空港は、2003年の時と比べて非常に近代化され、きれいになっていました。

空港には、ハギトさん、今回のガイドの関根さん(アミエル・ツアー、イスラエルの大手の旅行会社)、そしてバスの運転手のダニエルさんの3人が迎えに来てくれていました。空は抜けるような青空で、暖かな春の日差しでした。 ガイドの関根さんはイスラエル人男性と結婚して30年以上こちらに住んでいて、ヘブライ語がぺらぺらの方でした。大学の先生といった雰囲気を漂わせていました。イスラエルの歴史にも詳しく、その解説はそのまま大学の講義にもなりそうでした。

さっそくバスに乗って、ピースポールを建立する予定のアブ・ゴシュ町に向かいました。アブ・ゴシュはエルサレム近郊の町です。テルアビブとエルサレムを結ぶ高速道の両側には緑が広がっています。このあたりは、イスラエルの中でも比較的雨の降る地域なのです。

ハギトさんはアブ・ゴシュのすぐ近くのキブツで生まれ育ったそうです。彼女はすでにアブ・ゴシュにピースポールを1本建立していますが、今日は2本目を建立する予定です。アブ・ゴシュはアラブ人の町です。

ここで、現在のイスラエルの状況について若干、補足説明致します。

イスラエルは、ユダヤ人地域とパレスチナ人地域、いわゆるパレスチナ自治区に分かれています。


パレスチナ自治区はヨルダン川西岸地域とガザ地区に分かれます。これらの自治区のパレスチナ人は将来、独立することを目指しています。西岸地区は現在、故アラファト議長からつながるファタハという政党が政権を担っています。現在のファタハは比較的穏健な路線を取っています。

これに対してガザ地区は武闘派のハマスが政権を取っていますが、ハマスはイスラエルという国家そのものを否定し、打倒しようとしています。現在でもことあらばイスラエルに武力攻撃をしかけています。

パレスチナ自治区のほかにも、イスラエルが支配する地域の中にもアラブ人が居住しています。


これらのアラブ人はイスラエルという国家を承認して、その中で生きることを目指しています。彼らはユダヤ人とほぼ同じ市民権を持っています。ほぼ同じ、というのは、ユダヤ人ではないので、ユダヤ人と完全に同権ではないということで、様々な面での差別はあるようです。

これに対して、パレスチナ自治区のアラブ人はイスラエルによって外国人、むしろ敵国人として扱われています。通常はイスラエルに入国することすらできません。またイスラエル人もパレスチナ自治区に入ることはできません。

アブ・ゴシュは、地域的にはイスラエルに属する、その住民の大部分がアラブ系であるという町です。アブ・ゴシュの住民は、上で述べたようなイスラエル国民であるアラブ人です。イスラエルの中ではかなり特殊な町と言ってよいでしょう。

最初にバスが着いたのはキリスト教の修道院のような敷地の前で、修道士のような人の姿が見えましたが、あとで聞くと、それは実際にキリスト教修道院でした。そのすぐそばにはミナレット(イスラム教のモスクの塔)が見えます。そこから少し歩いて、役場の町長さんを表敬訪問いたしました。

最初にデリゲーションを代表して大林と数名がミニピースポールと折り鶴の首飾りを町長さんにプレゼントしました。まだ40歳代と見うける町長のサリーム・ラハマンさんは、アブ・ゴシュのユニークな特長を私たちに説明してくれました。ラハマンさんのヘブライ語を関根さんが日本語に通訳してくれました。

1948年のイスラエル建国によって、アブ・ゴシュ周辺の地域はすべてユダヤ人の支配地域に入りました。いわばユダヤの大海に浮かぶアラブの孤島のようなアブ・ゴシュの住民は、ユダヤ人と戦うのではなく、ユダヤ人との共存という道を選びました。そのために、異なった宗教の人々が互いの宗教の違いを認めあい、尊重するように努めてきました。そして、社会生活上に起こる問題は、武力や暴力に訴えるのではなく、テーブルについての話し合いで解決するように努めてきました。


どうしても話し合いで決着がつかない場合は、裁判所にゆだねます。


役場の職員も数名同席していましたが、その中にはユダヤ人もいました。役場の人々ばかりではなく、成人はみなアラビア語とヘブライ語の両言語を話せるそうです。

また、アブ・ゴシュのブドウ酒はたいへん評判がよく、アブ・ゴシュは経済的にも豊かな共同体のようです。最近は、音響のよいホールを建設し、そこで著名な演奏家のコンサートも開かれ、エルサレムから多数のお客さんも来るそうです。

このような行き方のために、アブ・ゴシュは異宗教間対話・協力のモデル・ケースと見られていて、毎年、多くの宗教者や平和活動関係者がここを訪れるそうです。このような町にハギトさんは数年前にピースポールを建立して下さったのですが、そのとき協力してくれたのがサリーム・ラハマンさんで、その方が現在では町長になっているのです。


今回、ラハマンさんが2本目のピースポールを受け入れてくれたわけです。
町長さんの歓迎のスピーチのあと、中澤英雄さんがデリゲーションを代表して日本語で、


「本日は私たちを御招待くださって、ありがとうございます。ただ今の町長さんのお話に深い感銘を受けました。異なった思想・宗教を互いに認めあい、共存するという行き方は、私たちの平和運動とまったく同じ精神です。日本ではイスラエルというと、テロとか紛争といった暴力的な事件しか報道されませんが、イスラエルにはこのような素晴らしい生き方をしている人々がいるということを日本人にお伝えしたいと思います」


と感謝のスピーチを致しました。関根さんがヘブライ語に通訳してくれました。

リゲーションを代表して大林他数名がミニピースポールと折り鶴の首飾りを町長さん達にプレゼント。

 
 
 
 

表敬訪問のあとは、近所に住むナマーティ・ラハマンさんが総勢21名(18名+ハギトさん、関根さん、ダニエルさん)を自宅での昼食に招いてくれました。21名も食事できるような部屋があるのかしら、と考えていましたが、たしかにそういう広いお部屋がありました。そのお部屋で、家族総出で準備したというアラブ風の食事を山のように次から次へと出してくれました。とても美味でしたが、私たちは出された食事の3分の1しか食べることができませんでした。もったいないのですが、食べられないものはしかたありません。

ハギトさんに聞くと、食べきれないほどたくさんのご馳走を出すというのが、アラブ人の歓待の心の表わし方なのだそうです。ナマーティさんご一家が私たちをどれほど歓迎してくれたかがわかりました。

食後、ナマーティさんがご自分の経歴や活動について詳しく説明してくれました。ナマーティさんは町長さんの従妹です。彼女は生まれてすぐキリスト教の修道院に預けられました。出産後、お母さんが体調と精神状態の両面で育児ができない状態になったからです。彼女はキリスト教徒として育てられ、修道院の生活に完全に適応して、生まれ育ちました。周囲にいるシスターたちが自分の家族であるということに何の疑問もなく、自分も将来は修道女になりたいと願っていました。


11歳のある日、二人のアラブ人女性がやってきて、自分は彼女の実の母と実の祖母だと名のったのです。それは彼女にとって青天の霹靂でした。自分の実母がイスラム教徒のアラブ人であるとはどうしても信じられなかったのですが、彼女は実家に戻ることになりました。そして16歳になった時、アラブの習慣に従って、親の決めた相手と結婚させられました。ご主人はイスラム教徒ですので彼女も形の上ではイスラム教徒になりましたが、心の中でははキリスト教徒のままのようです。


彼女には3人の娘と一人の息子が生まれましたが、3人の娘さんはいずれもアメリカに留学させ、キリスト教徒として育っているとのことです。まだ小さい男の子は、ユダヤ人とアラブ人が平等に学ぶという、近くの町の理想主義的な共同体の小学校に入れているそうです。


こういう経歴の彼女は、異宗教間対話と平和の問題に熱心に尽力しています。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世にも会ったことがあるそうです。世界各地の人々を対話のために自宅に招いています。また、テロリストやその家族を受け入れ、彼らの社会復帰を援助しています。異宗教間の調和と世界平和のために生まれてきたようなたいへんパワフルな女性です。ですから、私たち大勢の日本人グループを招き、歓待するのもごく自然の行為だったのでしょう。


家族総出で準備したというアラブ風の食事を山のように出され美味しく頂きました。

 

豪華な昼食のあとに、近くのアブ・ゴシュ小学校の門前に行き、学校の前の植え込みにピースポールを建立しました。このとき、エリヤフさんというハギトさんの長年の友人が来てくれました。

エリヤフさんは、脊髄に損傷を負って全身麻痺になった方で、車椅子で運ばれてきました。

ピースポールの建立が終わると、紙国旗を使ってアジア州だけのフラッグセレモニーが始まりました。その頃になると、授業が終わって、大勢の子供たちが集まってきました。中には紙国旗を返却しないで家にもち帰った子供たちも数名いたようです。賑やかかなフラッグセレモニーが終わると、エリヤフさんは「ビューティフルなエネルギーだ」と喜びで顔を輝かせていました。


近くのアブ・ゴシュ小学校の門前に行き、学校の前の植え込みにピースポールを建立しました。

 

全身麻痺になった方で、エリヤフさんというハギトさんの長年の友人が来てくれました。

 

紙国旗を使ってアジア州だけのフラッグセレモニーを行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

〇1月28日(木) ベツレヘム

この日に計画されていたもう一つの行事はキャンセルになって、午後、少し時間の余裕があったので、アブ・ゴシュのあとはベツレヘムに行くことになっていました。ベツレヘムはエルサレムから車で15分くらいの町です。

いったんエルサレム新市街のホテルにスーツケースを降ろして、そこからすぐにベツレヘムに向かいました。


ベツレヘムというと、イエス・キリストが誕生した町として有名です。現在、ベツレヘムにはイエスが生まれたとされる家畜小屋のあとに、生誕教会が建っています。


ベツレヘムは西岸地区パレスチナ自治区にあります。パレスチナ自治区はまだ正式な国家ではありませんが、先にも述べたように、イスラエルとは別の政治的地域で、この地域にはイスラエル人やイスラエルの車両は入ることはできません。ハギトさんも、通訳の関根さんも入ることはできません。したがって、万が一、何らかの事故が起こったとき、彼らが私たちを助けることもできません。


旅行社にベツレヘムとエリコの状況を問い合わせたところ、西岸地区にある二つの都市は現在はエルサレムなみに安全である、という返事でした。また、ハギトさんもぜひ私たちにパレスチナ自治区に行ってほしい、という希望でした。こうしてベツレヘム行きが実現しました。

私たちはベツレヘムの手前でこれまで乗ってきた観光バスを降り、歩いてベツレヘムの市域に入りました。ベツレヘムに入る検問所は、その両側に高いコンクリート製の壁がそびえ、厳しい雰囲気が充満していました。

パレスチナ人の自爆テロに手を焼いたイスラエル政府は、パレスチナ人を閉じ込める壁をパレスチナ人居住区の周辺に建設し始めました。これによって、テロは鎮静化し、現在のところイスラエル国内は平穏を保っています。しかし、この壁はパレスチナ人の生活区域を分断し、パレスチナ人の生活を困難に陥れています。

私たちはこのあと、エリコというパレスチナ自治区の町にも行くのですが、そこでハギトさんがヘブロンの状況を教えてくれました。その話を先にお知らせした方がベツレヘムの状況も解り易くなるでしょう。

ヘブロンは、イスラエル民族とアラブ民族の始祖であるアブラハムの墓がある、ユダヤ人にとってもアラブ人にとっても非常に重要な町ですが、現在はパレスチナ自治区に所属しています。

パレスチナ人は貧しく、中に土地をユダヤ人に売る人が出てきます。そういうユダヤ人がぽつぽつと土地を買い、家を新築します。そういうユダヤ人所有の家がヘブロンの中心部を点々と並びます。するとそこに今度は道路ができ、ユダヤ人保護という名目で軍隊が来て、周辺に壁が建設され、町は分断されます。ユダヤ人は明らかにそうやってヘブロンのパレスチナ人共同体を破壊し、パレスチナ人を追い出し、ヘブロンをユダヤ人地区に繰り込もうとしているのです。このような非人道的な政策に国際的にも非難が高まっています。非難が強まると、一時的に壁の建設はやみますが、しばらくするとまた始まります。

このようなことを推進しているのは、エレツ・イスラエルはユダヤ人の土地であると定めた旧約聖書の言葉を実現しようとする、ユダヤ民族主義に凝り固まった人々です。彼らはイスラエルをユダヤ人だけの国にするために活動しています。


以上のことは、ハギトさんから聞いた説明です。ハギトさんは、自分はユダヤ人だが、このようなやり方は間違っている、とおっしゃっていました。

ユダヤ人の歴史においては壁が重要な役割を演じてきました。中世のユダヤ人はゲットーの壁に閉じ込められて不自由な生活を強いられてきました。そのユダヤ人がついに1948年にイスラエルという国家を建設しましたが、今度は自分たちが受けたのと同じ仕打ちをパレスチナ人に対してしているのは歴史の皮肉です。物質的な壁は、人間を宗教や民族によって差別する心の壁の物象化です。このような壁はいつかすべて取り払わなければなりません。私達は祈り心を持って、壁に何度も手をつきながらベツレヘムの町に入りました。

市内に入ると、そこにはパレスチナ人のガイドとバスが待っていました。これはベツレヘムの有力者であるお土産屋さんが用意してくれたもので、バス代やガイド代の代わりに、私たちは市内観光のあとそのお土産屋さんに寄って買い物をすることになっています。アミエル・ツアーはいつもこのような形でベツレヘム観光を行なっているようです。

バスは、今まで乗ってきた豪華な大型バスとは違って、古ぼけたマイクロバスでした。そのバスに乗って私たちは生誕教会に向かいました。町の様子は、アブ・ゴシュのそれとは異なり、やや荒廃した感じがして、あちこちに路上にたむろしている男の人たちの姿が目につきます。ガイドに尋ねてみると、町の人口の30%がキリスト教徒で、彼自身もキリスト教徒であるとのことでした。

生誕教会は大勢の観光客で賑わっていました。今日のベツレヘムにとっては、観光業が主要な産業のようです。私たちはガイドに導かれて教会に入り、イエスが生まれたとされる場所、赤子のイエスが寝かされた場所などを見物して回りました。家畜小屋といっても、昔は洞窟を利用していたそうです。現在は地下にある洞窟がイエス生誕の場所とされています。そのそばにはイエスが寝かされたという岩があります。狭い場所で敬虔なキリスト教徒が、それらの場所に手を触れたり、地面に膝をついてお祈りしているので、長い列ができています。見物するまでかなり時間がかかりました。それでも今日はすいているほうだ、とガイドは言っていました。

地下の一画には、イエスの時代にヘロデ王によって虐殺されたという子供たちを祀ったチャペルがありました。ヘロデ王は、ユダヤの新しい王が生まれるという予言を恐れて、ベツレヘムの2歳以下の男子をすべて殺したと新約聖書マタイ伝に書かれています。そのチャペルを発掘したところ、実際に赤ん坊の骨が多数出てきたそうです。

生誕教会は、あとで訪問することになるエルサレムの聖墳墓教会と同じように、いくつかのキリスト教宗派によって分割管理されています。私たちは、地上階にあがったあと、フランシスコ会の教会で腰をおろし、お祈りをしました。


ベツレヘムにはイエスが生まれたとされる家畜小屋のあとに、生誕教会が建っています。


 

  

 

生誕教会を出たあと、バスはベツレヘム全体を見渡すことができる見晴らしのよい場所に向かいました。そこでガイドは、周囲を見渡しながら、ベツレヘムの周辺には現在ではユダヤ人の入植地が数多くできて、現在ではベツレヘムはすっかりユダヤ人地区に取り囲まれている、と教えてくれました。ベツレヘム周辺は本来パレスチナ自治区なのですが、そこにもユダヤ人が勝手に侵入して自分たちの住宅を建てていくのです。ガイドの言葉の中には危機感がこもっているように感じられました。

お土産屋で買い物をして、検問所を通って私たちが再びもとの観光バスに戻ると、20歳前後の、まだ少女といってよいような女性兵士が肩から機関銃をぶら下げて乗り込んできて、私たちのパスポートをチェックしました。イスラエルでは女性も徴兵制があります。日本人観光客だとわかると、パスポート・チェックも早々に切り上げて出ていきました。

アブ・ゴシュとベツレヘム。そこにはユダヤ人とパレスチナ人の関係をめぐる対極的な現実がありました。

バスはベツレヘムをあとにしてエルサレムに向かいました。夕方になって、道路はかなり混雑していましたが、30分くらいでホテルに6時ころに着きました。

そのあとレストランで夕食をとりました。夕食は(朝食もそうですが)バイキング形式で、好きなものを自由に選ぶことができました。アメリカのホテルよりもはるかに品数が多く、しかも野菜がたっぷりあったのはうれしく思いました。そういえば、イスラエルは農業大国でもあるのです。とても美味で、満足しました。ただし、コーヒーが水っぽいのだけは残念でした、と言われる方もおられました。

部屋に入ると、窓からほぼ満月の美しい月が見えました。こうして長い第1日目が終わりました。

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